二代目 ゴールデンレトリーバーのWOWは 肝臓癌で逝ってしまいました。 家族とWOWの闘病の記録です。
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癌と闘ったWOW

ーゴールデンレトリバーと家族の日記ー




はじめに

娘,美月の誕生。命の重み・意味を体で分かる子になってほしいと思っていました。
子供の頃、犬とともに育ってきた私は
それを犬を通して学んだことが多かったような気がしています。我が子にも同じようにしてやりたいと思っていました。

普通に生きていけば犬は人より早く逝く。娘がもの心つき、命の意味が分かる年くらいに(10才前後)。
犬が逝った時、その体を抱え穴を掘り葬ってやらねばならない。大きい方がいい。その重さ、大きさを自分の手で受け止めなければならない。
無条件に家族を信じ、愛し、尽くす犬を。

そんな思いで我が家に迎えたのがゴールデンレトリバーのWOWでした。
そのWOWが2002年12月15日午前5時45分、逝ってしまいました。

彼と過ごした9年2ヶ月は、教員を辞めこの村に引っ越してきておもちゃを創り、ペンションを営む我が家の暮らしの
すべてとともにありました。
失って気がついてみると、彼が私たちに与えてくれたもの方が私たちが彼に与えてきたものよりはるかに大きく重いものだったようです。

私たちが気付くよりもっと早い時期から彼の肝臓癌との闘いは始まっていたのでしょうが、
私たちなりに振り返ってみて、闘病記録をまとめてみることにしました。
その時々の自分たちの思いも残しており、読みづらい文章になってしまったかもしれません。

同じように犬と過ごしておられる方々にとって少しでも参考になれば幸いです。



2002年6月14日


毎年のことであるがこの年もそろそろ蚊の季節。県南や暖かい都会とは少し遅れる蚊の発生。
フィラリアの薬をいただくため津山の春名動物病院に受診。体重測定・血液検査を行う。異常なし。

もともと胃腸の丈夫なほうではないので、下痢症状はよくあるWOWである。このときはそちらも特に問題はなかった。

2002年夏

今年の夏は異様に熱かった。湿気の多いべたべたした日が多く、例年になくクーラーをつける日が多かった。
WOWにとってもすごしにくい夏であったことだろう。

2002年秋

夏の暑さは9月中ごろまで続いていた。夏とは逆にほとんど雨らしい雨が降らない。
さわやかな秋はあっという間に過ぎて行き、11月4日に後山が冠雪。
11月9日には本格的雪になり5センチほど積もった。


2002年9月


WOWの毛づくろいをしていると大きなダニ(牛ダニ)を発見。
さらによく見てみると小さなダニがたくさん見つかる。
かなり痒がっていたことと夏毛の除去の意味もあって毛づくろいをしたのだ。
駆除用の薬(首の付け根に滴下するもの)は春名動物病院より郵送で送っていただいた。
滴下後、ダニは完全に駆除できたようである。



2002年10月16日
(兆候?)

食欲が落ち始める

サイエンスダイエットの老犬食を少し残すようになる。
いつもというわけではなかったが、食べることが何よりも大好きなWOWにとっては大変な出来事である。
しかし、お父さんの昼食やおやつの時には傍について離れず、おやつをねだるのでそれほど心配はしていなかった。
運動が足りなのかもしれないと、家内は朝の散歩の時間を多くとるようにしてくれた。

春名動物病院受診。便の検査を受ける。心配なことはない、
食欲の出る薬を処方していただく。投薬後はしばらく食欲も通常に戻ったようだ。
しかし、血液の検査をしなかったのが気になる(由美)

アトリエでの仕事を終えてあがるときWOWをつなごうとすると、けだるそうにやってくる。
このけだるそうな動作が肝臓の異変の兆候であったのかも知れない。
それに「お休みを」言うときもお父さんやお母さんには見向きもしないことが多くなる。
美月にはちょっかいを出していたのでさほど心配もしなかった。

2002年11月9日

ひと月早い積雪。本当なら雪の中で転げまわって遊ばせるのだが、
小黒さんと守重さんが来ておられ、
博物館に送って行ったりしていたのでゆっくり遊んでやる事ができなかっ
た。

守重さんにはじゃれ付いて遊んでいた。
家人にはあまりじゃれることがないのだが、
よその人にはよくじゃれる外面のよさは相変わらずである。

2002年11月24.25日ごろから食事を残すことが多くなる。
夕食がそのまま朝まで残っていたり、朝食が夕方まで残っている事が目立つようになる。
しかし、おやつには飛びついてくる。

嗜好の変化かあるいは歯でも悪いのかと考え、主食をお湯でふやかしたり、缶詰の食事を与えるとよく食べた。
しかし、それも四五日すると残すようになる。
お父さんがアトリエに行くとおもむろに食べ始めることが多く、小分けして食べているように思えた。
相変わらずおやつは欲しがるので「おなかがすいたら食べるだろうから放っておきなさい」と言ったのはお父さんであった。
わがままか「お寂し病」くらいに考えていたのだ。結果から考えるとこれは肝臓の機能低下によるものであったのだ。


2002年12月に入って


更なる食欲の低下

残食が目立つようになり、缶詰も残すことが多くなる。時にはまったく口をつけていないこともあった。
また、「待て!よし」の合図にも口をつけようとしない事が目立つ。
缶詰の種類によっては食べることがあるが確実なものではなくなっていた。

散歩に出ると草を食べ、嘔吐することが目立つ。
おしっこのお漏らしも何回かあった。

2002年12月6日(検査・診断)

春名動物病院受診。血液検査GOT、GPTの肝機能を表す数値が高い。また白血球も多い。血糖値は正常。

レントゲン所見、肝臓の後部分に何かできもののようなものが映っている。
脾臓や腸の位置が肋骨の内側より後に押しやられているようだ。また、腸を取り巻くようにもやもやしたものが映っている。

それが何であるか、おそらく腫瘍のようなものであろうが、良性のモノか判断はつかない。
食事が摂れないことにそのことが原因していることは確かなようだ。
はっきりさせるには開腹手術が必要との事。春名院長は手術を薦めるという。
とりあえず肝機能をよくする薬を注射。


うちに帰って食事の様子をみて、食べないようなら明日7日(土)、
食べるようなら9日(月)に手術。という予定にして帰宅。

状態があまりよくないことと、アトリエが寒いこと、それにWOWを家族の中で一緒に暮らさせたいという
前からの思いを実現させることにする。

WOWの毛づくろいを済ませ上に上げようとすると階段をこわがって上ろうとしないので、
由美が後からお尻を押し、前からお父さんが綱を引きようやく上げる。
場所を作ってやるとすぐにおなかを下にしてねてしまう。夕食のときは体を起こし食べたそうにするので買い置きの缶詰を与える。
ぺろりと一缶食べさらにサイエンスダイエットを一掴み食べた。すぐに春名動物病院の大黒屋医師にTEL
「よかったね」ということで手術は月曜日にすることになる。

が、その後、まったく食べなくなる。水はよく飲む。家人のうごきもよく見ており時々後を追って廊下まで出ることもあった。

     おじいさんは昨日から友人と一緒にその人の白浜の別荘へ二泊三日の旅行に出かけている。


2002年12月7日(開腹手術)

あさ、食事に口をつけようとしない。水は飲む。すぐに大黒屋医師にTEL。
「すぐに連れてくるように、今日手術をする。立ち会ってください。」
中谷の藤井さん宅のお通夜(葬儀翌日)、一成君の発表会と重なり由美が動けない。

お父さんと病院へ、午後二時より手術となる。
血液検査の結果は昨日と比べると急激に悪化している。肝機能の数値はどちらかが481、一方が700いくつであった。

二時まで術前の処置や準備があるのでWOWを残して時間つぶし(ベスト電気)


二時15分前に再度病院へ。昨日手術を受けた高橋フィット君のお父さんと話す。
彼も同じ病気で肝臓癌が他の臓器にも転移しており、開腹後すぐに閉じたそうで、
後は家庭で幸せに死を迎えるようにしてあげるしかないとのことであった。
フィットは自分で歩いておしっこをし、車に乗り込んでいった。
犬の回復力のすごさに驚きながらも、「WOWはそんなにひどいことはない。
きっと手術もうまくいって元気になる。」と自分に信じ込ませようとした。

WOWはモルヒネをうち手術の準備を終えてケージで待っていた。
薬が効き始めていたのだろう朦朧としながらもお父さんと一緒に自力でエレベーターに乗り手術室へ向かった。
事前処置台の上に載せるときにはもうされるがままの状態。
挿管し麻酔がかかり、お腹の毛をバリカンできれいに刈り終え、手術室に入って行く。
ドクターたち(春名院長、大黒屋医師たち)のいでたち、手洗いの様子は人の手術と同じ光景で進んで行く。

この病院は基本的にオーナーの立会いを原則としている。
病状と判断のとき、固体や症状による急変に対応するためのものなのだそうだが、
手術室に設置されたテレビカメラがきれいにそられた
WOWのお腹が消毒されるのを映し出すとさっきまで信じていたことは逆の不安に変わって行く。
「最善を尽くします。」
おっしゃる院長の言葉がWOWの症状の深刻さを、現実のものとして受け止めるよう促しておられるように聞こえた


第一刀が入る。切れ味の鋭さは木工をする自分にとってうらやましくなるほどの切れ味である。
皮膚についで腹膜。出血はほとんどない。中から腸が見え始める。
約20センチほどきっただろうか、看護士が手術室に入室を求めてきた。
帽子とマスクを着用し入室すると、院長がこの肝臓を見るようにと軽くWOWの肝臓を引き出すようにして見せてくれた。
こんな状態の生肝を見たことがない。
荒塩をいっぱい振りかけさらにゴマを振りまいたような肝臓であった。
「癌です。手の施しようがありません。残念ですが・・・」
言われるまでもなく一目でそれと分かった。で・・・。
「あとどれくらいがんばれるか分かりませんが家族の下で幸せに最後を迎えられるようにしてあげるしかありませんね。
いろいろご相談して行きましょう。」

私たちは飼い主として何かを見落としていたのだろうか。もっと早く気付いてやることはできなかったのか。
私たちが、WOWをこの状態に追い込んでしまったのではないだろうか。

 

女性医師に問いかけると涙が出てしようがなかった。その女性医師もWOWのために涙を浮かべてくれた。
「どうしようもなかったと思います。」院長の言葉も同じであった。
担当医も肩を落として出てきた。「もう一度、WOWが好きなものを食べさせてやりたい。」と話すと彼も大きくうなづいた。
願望と分かってはいる。

今日はWOWが麻酔からさめるのを待ち、術後の処置をするので、私の出番はここまでであった。
WOWと二人でやってきて一人で帰る東粟倉までの道のりは遠かった。
途中由美に電話を入れた。電話の向こうの由美の落胆がすぐ隣にいるように感じられた。

アミーゴ(ペットショップ)で制限されていたカロリーの高い肉の缶詰も買った。
食べやすそうな肉のスティックもシチューのような飲めるものも買った。
気に入ってくれるものがあればまた買いに来ればいいようにいろいろな種類を買った。
買い過ぎたか。みんな残さず食べて欲しいのだが。

何も手につかないだろうと夕食の寿司を買って帰ることにした。
買い物をしている間もボーっとWOWのことを考えていたような気がする。

東粟倉までのまで道のりは思っていたより近く感じた。何を考えていたのかを今思い出すことはできない。

帰宅後、明日のFOSおもちゃ教室の準備をする。段取りよくやっているつもりだったが、あとからあとから忘れているものに気付く。
準備を終えて椅子につくと涙があふれてきた。
いつかはやってくるWOWとの別れがこんな形で、しかもあまり遠いことではないと知った。

まだ死んだわけではないのだけれど、いまこの部屋にいないことが死んだときを予測して、悲しく感じさせたのかもしれない。
その私の顔を見て美月も辛そうであったが、涙を見せることはなかった。
美月ってどんな神経をしているのだろう。
細くなりやがて消え行くWOWの命の今を感じて欲しいと思った。明日、WOWのお迎えに美月を助手として連れて行くことにした。
残り少ない時間を、一生懸命飼い主である私たちと生きようとしているWOWの姿を全部みせたかったからだ。

風呂の中で由美と話した。
由美は目の周りを真っ赤にしてWOWとの過ごした過ぎた日々を思い返していた。
「なぜ気付かなかったのか、もっと早く手を打てなかったのか・・・」と自分を責め
「母親が死んだときよりきつい」といった。
病んでいても苦しんでいても、今ここにいないということが、私の気持ちと同じようにさびしくさせた様だ。

床について美月と話した。
美月も涙におぼれるように眠りについた。懸命に現実を受け入れまいとしているように見えた。


2002年12月8日
(退院・療養)

6時45分起床。おもちゃ教室に行く準備を始めようとアトリエに入る。
何気なく入ったものだからWOWがいないのに気付いて、「そうだったんだ。」と思った。昨日のことは現実だったのだ。


WOWのお迎えがあるのでおもちゃ教室が終わったらすぐに帰ることを校長に伝えた。
同じ、犬と過ごす人として、気持ちを理解してくださった。
本来ならばFOSの会長、教頭とともに昼食を一緒にとるのがこれまで8年の慣わしだったのだが、
私の分だけの食事を用意して持たせてくださった。感謝している。

おもちゃ教室に参加している子供たちにもWOWのこと、その命について語りたいとも思った。
いまの気持ちをこの子達とも共有して欲しいと思った。
でもやめた。おもちゃを作ることに専念した。
命について命を直接語るのは私のすることではない。私はおもちゃを作ることで命を伝えなければいけないのだから。
WOWの命と私たちとの暮らしの終わりを静かに迎えようと思った。

美月を迎えに家に着いたのは午後2時。藤井さんのお宅のお葬式はまだ続いていた。人がなくなった。
犬よりも大変な出来事なのだが(比べることすらいけないとは思うのだが)
今は少しでも早くWOWのところへ行ってやりたいと思った。
自分の体がどうなっているのかも理解できず、私や由美や美月やおじいちゃんと離れて、
知らない猫や犬のほえる声を聞いてきっと困っているだろう。さびしい思いをしているだろう。思いをおさえてゆっくり走った。
ほかの車が追い越していく。

病院に着いたのは午後3時を過ぎたころだった。病室のWOWと目が合った。
ふらふらと立ち上がり力なく尾を二三度振った。術後の痛みと病の苦しさに耐えて精一杯の喜びの表現をしたのだろうと思う。

これからの過ごし方、予想される病気の進行の形、薬の与え方や注意事項を聞いて病院を出たのは3時40分ごろであった。
玄関先で黄色いおしっこをした。WOWはケージの中を汚さないように我慢していたのだ。

大黒屋医師は車が出るまで見送ってくれた。若い彼もまた、私たちと同じ思いだったのだと思った。

できるだけ揺れないよう凸凹を避け、セカンド発進、安全運転で走った。
それでも時々立ち上がったり座ったりしていた。常に言葉をかけながら走った。

うちまであと10分のところにホームセンターがある。デオドラントシーツとWOWがすきそうな煮干をかった。
ほかにも必要なものがあったので買い物に20分くらいかかったが、車に帰るとWOWは体を横たえて待っていた。

うちまでの10分は長く感じた。工事のためにほりかえされた道路を恨んだ。

くるまから降りておしっこを済ませ、うちに入ろうとするとアトリエのほうに向かい玄関から入ろうとしない。
長年暮らしなれた場所がいいのだろうと思う。
それにWOWは階段とフローリングの床が大の苦手のようだ。帰宅は17:20ごろ


由美と二人で抱きかかえて二階に上がる。抱上げる手が傷口に当たるのか、キュウンキュウンとかすかな声を出す。
部屋に入り窓際に横たえてやる。水は飲もうとするがぐったりしている。
約20分に一回姿勢を変える。呼吸は荒い。起き上がると舌を出してハーハー息をする。
病院で点滴を受けていたので飲み薬は与えずにおいた。
シーツの上に腹ばいになると傷口の血がつく。

帰ってすぐに雑魚を与えると5匹くらいを自分から食べた。
ジャーキーのおやつは2本ほど食べたが、そのあとはすべての食べ物を拒んだ。
食べたものは20分後にすべて吐いてしまった。吐物に雑魚が混ざって見えた。
吐物は赤褐色のチョコレートのような色をしている。血が混ざっているようだ。
消化器系をきったわけでもないのになぜ吐血するのだろうか。

嘔吐は一時間に一度くらいの間隔で起きる。入院前からお父さんが一緒に寝ているが、
夜中2時半ぐらいまで落ち着かない様子で頻繁に姿勢を変える。
そして、嘔吐。
3時くらいになってようやく眠くなったようで、動きが少なくなり眠ったようだ。
ちょっと安心したが、動かないでいると呼吸が止まったのではないかと心配になる。



2002年12月9日
(吐き気)

朝、5時半ころ嘔吐で目覚める。少しじゅうたんの上にはいた。
排尿もまだ外へは行けず敷物の上に少量を2回、結構まとまった量を1回していた。
その都度新しいシーツと交換し、気持ちよく寝られるようにした。


嘔吐は7から8回ポンプのようにゲロゲロやったあとガーッと吐く。
吐く前には立ち上がるので事前に分かる。
また、立ち上がって吐くわけではなくこちらをじっと見ていることがあるが、
これはおしっこのサインのようである。
そんなときは抱きかかえて一階に降ろし外へ連れて行く。
おしっこをするとすぐにUターンし家に入ろうとする。(アトリエに)

大黒屋医師から状況をたずねる電話が入る。
消化器粘膜を保護する薬と抗生剤を送っていただくことにする。

午前中、恵理ちゃんと一成が見舞いに来てくれると
体を起こしうれしそうに尻尾を振ってあいそを振りまいている。
試しに雑魚を見せると10匹くらいパクパクと食べた。
お客さんに対するあいそのよさは相変わらずであった。しかし30分後には食べた雑魚の半分くらいを戻してしまった。

痛み止めの薬のせいか日中はぐったり横になっている。嘔吐の回数はずいぶん少なくなる。
夜眠るまでに4回、夜中に2時半、明け方5時半であった。

この日から飲み物をポカリスウェットに変える。

夜、埼玉の野出さんと友達が見舞いに来てくれる。(鳥取への用事のついで)
二人が部屋に入ってくるとまた起き上がってあいそを振りまきに行く。

この日のよるから飲み物にアガリクス茶を与える。最初は少し抵抗を示したがちゃんと飲んでくれる。
ポカリ+アガリクス+角砂糖。抗癌作用があるという。
今生きているものが元気を取り戻すのは奇跡でもなんでもない。信じて、出来ることは全てやろうと思った。



2002年12月11日
(安定?)

昨夜来の雪で5センチほどの積雪があった。雪の中をおしっこに出たが、車の横で用を足すとすぐに戻ろうとする。
おしっこは今日3回くらい外に行く。

朝、痛み止めを飲ませるとぐったり脱力してしまう。
かなりきつい薬のようだ。心配になるほどの脱力で意識レベルも低下するようだ。

カッパえびせんを3本ほど食べさせるが30分後には吐いてしまった。

比較的安定しているようなのでアトリエにストーブの設置をする。WOWが元気になったら昼間は一緒に
アトリエで暖かく居られるように。

昼ごろ部屋に戻ると嘔吐していた。申し訳なさそうな顔でこちらを見ている。
隣の部屋でコンピューターのキーボードを打っていると、尿意や吐き気を伝えにくる。

昼に由美が買ってきた。かぼちゃのソフトクッキーを口に入れると食べた。
もう一本与えると自分から食べようとした。結局二本食べた。
お父さんのお昼ご飯のパン(デニッシュ)を3分の1食べた。もどすこともなかった。
パンは食べられそうなので、さかえやで求めた。
夜の吐き気は2時半ころ一回だけであった。吐き気は日を追うごとに少なくなっているようだ。

6時から9時過ぎまで吉田の森さんたちの宴会があったのだが、
それがお開きになり送迎を済ませるまでおしっこの我慢ができた。


2002年12月11日(排便)

朝、トイレにつれて出るとWOWはアトリエのほうへ駆けて行き、アトリエから外に出ようとする。
自分の居場所はここだと言わんばかりに。昨日の夜もそうだった。)
長年暮らした場所が一番良いのだろうが、夜は寒すぎる。それに、いつも見ていてやれない。

おしっこは玄関を出たところで済ませる。排便もあるかと少し遠くまで歩いていくとついてくる。便が出た。
はじめは粘膜状だがあとはしっかりしたのが10センチほど。血が混ざっているので少し色の濃いものであった。

新しい薬が届く。飲み薬(1日3回)抗生剤など(1日2回)これに加えて制吐剤(1日3回を飲ませる事になるが結構ややこしい。
早速お礼の電話を入れる。手術の計算書も同封されていた。良心的な対応に感謝している。

薬はうまく飲んでくれる。昼間吐き気はほとんどない。夕方美月のまえで吐きそうになったそうだがおさまったらしい。

夕方、花咲さんが来たときも尻尾を振って靴をくわえり袖をかもうとしたり、
とってもうれしそうに遊ぼうとしていた。

午前中の食事は赤ちゃん用の離乳食(チーズペースト)を瓶の半分与える。
口の中に塗るように与えると嫌がることなく食べた。昼のパンは6分の1くらい食べた。
夕方美月が帰ってきたときも6分の1ほどをぺろりと食べた。
ポリ袋のかさかさいう音にむっくり体を起こす。これはパンやおやつを入れていた袋の音なのだが、
少し食欲も出てきたのかも知れない。

夜、今日の宴会のお客様(若林ママ、博昭さん、和子さん、高尾さん)が見舞ってくださった。
和子さんの手から残っていたパンをすべて食べたらしい。

吐き気は明け方6時だけであった。
この日は妙見神社の総代会、高尾さんたちのお泊り、「私たちの夏」の忘年会・・・忙しかった。



2002年12月12日
(投薬)

高尾さんたちが出られたあとトイレに連れて行く。おしっこに加え昨日よりしっかりした便が出た。
歩いた距離も最高(約50メートル)嫌がることなく歩いた。

チーズペーストの残りを食べる。(スプーンでも上手に食べた。)

お客さんがあると薬の時間がずれてしまうので困ったものだが、投薬と食事のスケジュールを立てた。

粘膜保護(液体) 7:00    15:00    23:00
制吐剤      6:00    14:00    22:00
抗生剤など    6:00            18:00
食事       8:00~12:00  16:00~20:00


とした。
今日も大黒屋医師が電話を下さった。


日中および就寝までは吐き気は無かったが、自分から進んで食べることが無いのが気になる。
パン、カロリーメイトを与えるとすぐに嫌がって出してしまう。

夜、赤ちゃんのレバーペーストを与えると自分から食べようとすることは無いが、それほど嫌がることも無く飲み込む。
あわせて無理やりだがパンを5分の1とカロリーメイト半分位を食べさせた。

歯ぐきが少し黄色みを帯びているのは黄疸が出てきている印なのだろうか。

夜の嘔吐は3時、あさ6時




2002年12月13日
(黄疸)

朝の錠剤・水薬は与えたあと嘔吐した。水薬のせいかココアのような色である。

雪が5センチほど積もっていた。おしっこを済ませた後WOWは雪をバクバク食べる。
池のほうへどんどん歩いていき、雪を食べる。
ウンチも済ませたが帰ろうとしない。こちらから呼ぶとやっと帰ってくる。


ウンチははじめのほうはいい色だったがあとは黒かった。形のしっかりした10センチ程度のものだった。

朝ごはんにレバーペーストにカロリーメイトを加えたものを与えた。
由美が食器を持って近づくとむっくり起き上がりよたよたと逃げていく。コタツの周り隣の部屋・・・。
無理に食べさせられるのが嫌で、逃げ出したようだ。
嫌がりながらもよく食べたので二杯目を食べさせた。
薬が入っていなかったことと急いで食べさせたことが原因だろうか、11時40分ほとんど戻してしまった。

お腹の傷が少し膿んでいるようなのでマキロンで消毒してやる。

昼前、恵理ちゃんがWOWのために焼いたクッキーを持ってきてくれる。
一つをぱくりと口にしたがあまり大きかったのでうまく食べられなかった。
そのあとは食べようとしない。勢いにはだまされなかった。

※ 黄疸だろう。歯茎の色、白目の部分、耳の内側の色が気にかかる。

お父さんのひざを枕に甘える。
夕方春名和子さんが食パン、ツナ缶などを持ってお見舞に来てくれた。
「よその人が来ると喜んで、その勢いで食べることがある。」と話したのを聞いて、来てくださったのだが、
ちょっと喜んだあと、食べさせられると察していすの下に頭を突っ込んで寝てしまう。
夕食に鳥のささ身フード+カロリーメイト1本を食べたあとだったからかもしれない。

19時55分ごろ吐く、吐物は夕方食べたものだった。
制吐剤は溶けるのに時間がかかるようで、吐物と一緒にもどしてしまう事が多い。
吐いたら楽になったのか眠ってしまう。

あと二日もたないかもしれないと、感覚的に思ったが、口には出さなかった。
口に出せば、本当になってしまうような気がしたから。



2002年12月14日
(危険な状態)

朝 4時頃嘔吐。 7時頃おしっこのお漏らし(術後の痛い時期を除いてはじめてのこと)
外に出ておしっこをするが、わずかであった。便は下痢便。
歩き方が危なっかしくなってきて、よたよたする。
部屋に入りまた嘔吐。かなり吐いた。
血と粘膜保護剤が混ざったココアのような色の吐物が続いている。

手術の傷跡から黄色っぽい澄んだ液体がポタポタ滴り落ちている。
腹水か膿か?(大黒屋医師)マキロンで消毒。

舌の先端がまだら模様になってきた。

昼ごろおかゆをスプーンで、生卵をといて注射器でのどに入れてやった。
比較的楽に食べることが出来たようだ。
ベビーフードにはたまねぎが使われているのに気がついた。
たまねぎには溶血作用があるので
やめる事にした。

カロリーメイトもおなかが膨れるのでやめる事にした。
3時頃制吐剤を飲んだ後、食べたものと一緒に吐いてしまった。
投薬のときに口を開かなくなってきた。口に入るものは何でも拒絶する。

夕方のおしっこから担架で降ろすことにした。一階に下りてもなかなか立ち上がろうとしない。
やっと立ち上がって外に行くが下痢便を少しして、外にへたり込んでしまったので、担架を持って迎えに行った。

今晩から寝たきりになってしまうのだろうか。今晩もつだろうか。死期が近いと感じた。

由美も同じ思いだったようで、WOWと一緒にみんなで寝ることにした。
11時ころ注射器でシロップを飲ませる。水も自分で飲むのはしんどくなってきている。

美月とお父さんは眠ってしまった。



2002年12月15日
(最期)

由美も眠ろうとした午前1時頃、体温の低下を感じ毛布をかけ一緒に寝てやっていた。
呼吸は速く浅くなってきている。心拍も乱れがちだったようだ。
その音で4時頃私も目覚めた。
私の声にこたえるように上目遣いに私を見て、視線を合わせた。
4時30分頃 ピクピクッと痙攣が起き始める。時間を追うごとに痙攣の回数が多くなり、大きくなってくる。
そのたびに口の音がパコッパコッとなる。瞳孔も開きかけている。

5時20分 痙攣と同時に体をむくっと起こしキューんという声を出す。
肝性昏睡による無意識的な反応だったのだろう。

5時45分 体をのけぞらせるように大きく息をすったあと再び息を吐くことはなかった。
心停止・呼吸停止を確認した。

心臓マッサージも試みた。効果はなかった。胸を押すたびに肺にたまった空気が口から出る。
まるでまだ息をしているかのように。
目をしっかり開いていた。まっすぐ何かを見つめているように。目を閉じさせようとしたが出来なかった。

由美「それまで頑張っていた糸がほどけるようにサワサワッと力が抜け、肩口をスーッと何かが抜けるように通り過ぎるのを感じた。
美月も起こし最後を見取らせた。由美の腕の中での最後の時だった。

15分後まだ温かいが少し硬くなってきた。
毛布にくるみ隣の部屋に寝かせた。死ぬとさらに重くなる。

祭壇を作り、おいしい食べ物をいっぱい並べてやった。
手術の日に買い込んだご馳走だが、結局どれも口にすることなく逝ってしまった。

この日は隣組の忘年会。準備や会の最中は忙しさにまぎれていたが、
みんなが帰って静かになると涙が止まらない。
部屋に上がると彼はまだ生きているようで、「おい! いつまで寝てるんだ」
「お薬だよ」などと声をかけてしまう。

みんなで同じ部屋に寝て、通夜を営んだ。



12月16日
(葬儀)

鳥取の「愛メモリアル」で家族だけで葬儀をする。
出棺のとき硬直が解けた口から大量の血が流れ出た。
簡単な告別式の後、火葬した。火葬のスイッチは私が押した。彼の姿とは永遠の別れになる。さすがに少し躊躇した。

しばらくすると煙突から勢いよく炎が上がる。
魂が天に昇るのだとすれば、あの勢いが天まで舞い上げるのだと思えるほどの勢いだった。やがて、黒い煙に変わった。
その煙を背中に感じながら、火葬が終わるまで食事をしたり買い物をしたりした。
おじいちゃんがご馳走してくれた。わたしたちの落胆を気遣ってくれたのだと思う。

2時間半後 再び斎場へ戻る。
ほぼ納めたときの姿のままお骨が残っていた。(尻尾など小さいものは網の下に落ちてはいたが)
ハムスターを火葬する人も居るそうだがお骨拾いは難しいそうだ。
病んでいた肝臓の周りだけが緑色になっている。
不思議に思ったが人間も同じで、脳梗塞で亡くなった父は頭の辺りが緑色になっていた。

昨日自分でつくった木製のお骨箱にほとんど全てのお骨を拾い入れた。
あの大きくて重かった体がこの箱の中におさっまっている。

死後の世界を信じるものではないが、もしあるとすれば
今頃犬好きな父がWOWに引きずりまわされているのではないかと思う。
彼に父への手紙を持たせてやったから。
「WOWのこと、よろしく頼む」と

帰宅後、祭壇をしつらえた。一月の中ごろ、見晴らしのよいおじいさんの畑の片隅に
埋葬してやることにしている。

WOWとともに生きた証として、お守りとして、祈りとして、お礼として
かれの遺髪と骨を封じ込んだキーホルダーを家族みんなに作った。
美月には足が速くなるように足の骨を入れてやった。


その後

由美は時間が来ると散歩に行こうとアトリエに足を向ける。
私は、夜中に何度も目を覚まし枕元に居たWOWの背中をさすってやろうとする。
何も考えずに行動しているとつい彼の居たときの行動をとっている。
彼にとられないようにおやつをかくして食べたり、はなしかけたり・・・。
暮らしの中にぽっかり空白が出来てしまっている。

娘も命の意味の何か少しでも感じてくれたのではないかと思う。
WOWはまさに美月とともに大きくなってきた
弟のような存在だったのだから。
居るときには当たり前すぎて何も感じないものが、
居なくなると・・・・


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